eternal1 (作者:ナナ)
初心者マーク【5】
不意に意識が覚醒する。
ユウトは汗をかいていた。まるで、悪夢を見たときのように。
外の桜を眺める。
「何なんだ……?」
外の異常に気付いてカレンダーを見る。日めくりカレンダーは五月十日。
「そんな………」
震える身体を抑えて、ベッドから飛び上がる。今まで抑えられていた嗅覚や聴覚、触覚といった感覚器官が目覚める。
鼻では吐き気を催すエタノール臭をキャッチする。肌では利きすぎているクーラーの冷気を感じる。目では白い天井と若葉の生い茂る桜の木を捕らえる。
身体はまだ震えている。
「そうだ………」
この部屋を出てしまえばいい。そうすれば、この幻を否定できる。
ゆっくりと部屋の出口に向かう。ドアを開け、部屋の外を見る。
「……まじか…」
その幻はあっさりと否定された。ユウトはそれを受け入れるしかなかった。
ドアの脇のネームプレートには〈深谷ユウト〉と書かれた紙が挟まっていた。
「先生、深谷ユウトが目を覚ましました」
ミノリは耳をピクッと動かす。何かの聞き間違いかと思った。
「え?」
遅れて聞き返す。幸せとは、いきなり訪れるものだ。
「深谷ユウトが目を覚ましたそうです」
数日前からそんな兆候はあったが、まさかこんなに早いとは思っていなかった。
「じゃあ、ちょっと診てくるわ」
そう言い残して、診察室を後にした。
ベッドの上に大の字になる。いくらもがいても、変えられない現実だった。
「俺は精神病棟にいたってわけか……」
鳥籠の中の鳥と同じで、主の許しがなければ飛ぶことは出来ない。
もう、全てのことを思い出していた。ここにいる理由や、彼女のことも。
部屋には誰もいない。僕一人だった。
部屋にテレビがあるわけでもなく、ただ無音と白い世界が広がっているだけだ。
「はぁ〜」
声を上げてみるが、音は壁に吸収されるかのようにすぐに消えた。
コンコン。
ノック音がして、音もなくドアが開く。
「あら……」
聞き慣れた声がする。
「ミノリ先生…」
僕は〈先輩〉ではなく〈先生〉と言った。それはもちろん、ここが病院だと分かったからだ。
ミノリはさほど驚いた様子ではなかった。むしろ、ホッとした様子だった。
「本当に戻ってきたのね……」
全てのことを思い出してから、僕はあることが気になっていた。
「ミノリ先生」
「何?」
ミノリは穏やかな笑みを浮かべて言う。
「アオイは…どうなりましたか?」
僕が眠っていた四ヶ月間のアオイの様子を、僕は知らない。
ミノリもそこまで考えていなかったらしい。驚いたような顔をしている。それとも、アオイはひどい状態なのだろうか。
「教えてください」
僕はミノリに頼み込む。
「仕方ないわ…ついてきて」
ミノリは諦めたように言った。この反応で、僕はある程度のことを悟ってしまった。だけど、それを口にしようとは思わなかった。
それを口にしたら、振り出しに戻りそうな気がした。
ドアをいくつも開けて、廊下を歩く。やがて、ある部屋の前で止まった。
ネームプレトは〈深谷アオイ〉となっている。
ドアをノックして、静かにドアを開けた。
機械の電子音がする。
ベッドの上には幾つものチューブに繋がれたアオイ。
「なかなか目を覚まさないの」
ミノリは静かに言う。ベッドの上の彼女は目を瞑ったままだった。
「アオイ………」
戻ってこいよ、と呟くが、声がかすれて出ない。
涙をこぼすが、ドラマの様になるわけもなく、彼女は目を瞑ったままだった。
僕はもう思い出していた。
彼女は年の初めに倒れた。
原因はストレスだったか、過労だったか。
きっと数日で戻ってくるだろう、という期待も裏切られ、そこから先は覚えていない。
気がついたら、以前の生活に夢見ている自分がいた。その夢見ている自分を肯定し続けたら、いつの間にか四ヶ月が過ぎてしまった。
本当は肯定すべきことじゃない。それを認識したのはごく最近で。この世界にサヨナラして、現実という世界に足をつけなきゃいけない。そんな風に思った。
だけど、そんな風に思っても、まだ霧の中にいた。
「後で私の部屋に来なさい」
その声でハッと我に返り、現実に引き戻される。
ドアが音もなく閉まる。
僕はベッドのそばに丸いすを持ってきて、座った。
「アオイ…」
手を握って祈る。彼女が目を覚ましますようにと。今すぐでなくていい、いつか、必ず。
「毎日祈ってるから…」
そう言い残して、病室を出た。僕のささやかな祈りは届くだろうか。
診察室に行くと、ミノリは珈琲を飲んで待っていた。
「もう四ヶ月になるのね…」
ミノリはそう呟いて、カルテを眺める。僕もそれに頷く。
四ヶ月は長い。その間に季節は冬から春に変わり、流行も変わり、政治的な動きだってある。
「これからどうするつもり?」
ミノリは何かを書きながら言う。それは夢の中での彼女とまるで同じだった。
「仕事を探します。前の会社で、やっていける気がしません」
前の会社には、長期休暇の届出を出していた。だから、職場に戻るのは簡単なことだった。だけど、間に四月を挟んでしまったのでそれも無理そうだった。
「そう…」
夢の中と変わらない返事だった。
「四ヶ月間、ありがとうございました」
僕は頭を下げて部屋を出ようとする。
「たまには顔見せなさいよ」
そう言った彼女は晴々とした笑顔だった。
「はい」
返事をして、部屋を出る。
数時間後、あるいは明日退院している自分を思い描いて、苦笑した。
退院して、アパートの部屋に戻る。彼女の香りが、まだ残っていた。
床に座り込んで、静かに泣いた。懐かしくて、だけど今は戻らないことを改めて認識させられた。
人間というのは、案外危ないところで生きているのかも知れない。死の上で命の綱渡りをしていたり、妄想の上で現実の生活を成り立たせたり。
そんなことを何故か悟って、涙を拭いた。
彼女の香りを思いつつ、昔のことを思い出していた。
彼女が戻ってこない以上、昔の生活なんて戻ってこない。それが分かると、やっぱり悲しくなった。
ひとまず、彼女との思い出は胸にしまっておこうと思った。それを思い出すたび、悲しくなりそうだったからだ。
そして、ばかげた夢に近づく為に。
fin.
〜後書き〜
初のソングスノベルです。「若葉」をもとに書きました。
それなのに、話が重たくなってしまいました。
このシリーズはあと二話ぐらいあるので、そちらもアップしようと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
ナナ 著