◆タイピング文
・平城京に都が移された710年から平安京に都が移されるまでの約80年間を奈良時代といいます。平城京は唐の都の長安にならって、東西南北に規則正しくはしる道路によって、整然と区画された都市でした。
・武蔵国で発見された自然銅が朝廷に献上されたことをきっかけに、708年和同開珎とよばれる貨幣の鋳造が行われました。
・近畿地方を中心とする大和朝廷の勢力が強くなるにつれて、東北地方に住む人々は、朝廷から異なった文化をもつ異民族としてあつかわれ、蝦夷とよばれました。九州の南部に住んでいた人々も蝦夷と同じように異民族としてあつかわれ、隼人とよばれていました。
・奈良時代になると、農民に課される負担が大きく、農民たちの中には、口分田をすて、戸籍に登録された土地をはなれて他国に浮浪したり、逃亡したりして、地方豪族などのもとに身をよせ、律令の支配からのがれようとする者もありました。
・720年、藤原不比等が亡くなり、翌年に長屋王が左大臣となり、政治を動かすようになります。長屋王は天武天皇の皇子である高市皇子の息子です。つまり天武天皇からみると孫になります。
・長屋王の行った政策で有名なのは723年に出された三世一身の法です。新しく溝や池を開墾した場合は本人、子、孫の三代、古い溝や池を修理して開墾をした場合は、本人一代に限り、開墾した土地の私有を認めるというものです。
・藤原不比等の死後、元正天皇のもとで長屋王が政治の実権をにぎっていたわけですが、もう一度、政治の実権を自分たちの手に取りもどしたいと藤原氏は考えます。藤原氏の陰謀により長屋王の変が起こり、長屋王は死に追いやられました。
・藤原氏の基本的な考え方は、天皇の后に藤原氏の娘をつける。そして生まれた子を次の天皇にし、天皇家と親戚関係を結ぶことによって、自分たちが政治の実権を握るというものです。
・橘諸兄により九州の大宰府に左遷されていた、藤原不比等の孫である藤原広嗣が、740年橘諸兄政権に異を唱え、大宰府で反乱を起こします。これを藤原広嗣の乱といいます。
・聖武天皇の時代はたいへんな時代で、凶作、飢饉、地震に疫病、さらには貴族の反乱と、ありとあらゆる災難が次から次へと起こった時代でした。そんな災難を打開する為に、聖武天皇は、国分寺建立と大仏造立を命令しました。
・743年に聖武天皇が命じた大仏造立は、本体をつくるのに2年、整形に5年、メッキに5年で、合計12年もの歳月がかかりました。像の高さは約16メートル、大仏を安置してある大仏殿は、高さが約47メートルですごい大きさです。
・日本の朝廷は唐の進んだ文化や制度などを学ぶため、また交易を目的として、唐へ使節団や留学生をさかんに送りました。この唐へのつかいのことを遣唐使といいます。
・第1回の遣唐使として派遣されたのは犬上御田鍬でした。そして894年に菅原道真の意見によって停止されるまで、およそ260年の間に、実際に派遣されたのは15回であったと考えられています。
・759年、鑑真は平城京の西に唐招提寺を建立し、多くの日本人僧をこの寺に集めて仏教を教える一方で、経典、仏像、建築、薬学などの知識を伝え、日本の文化発展に大きく貢献しました。
・743年に聖武天皇は、墾田永年私財法を出します。723年に出された三世一身の法では期限を切った私有だったので、どうせ国に取り上げられるのだからと、農民の耕作意欲が低下して墾田が荒れてしまいました。だからそれを防ぐために、墾田の永久私有を認めることにした法律です。
・聖武天皇の時代を中心として栄えた奈良時代の文化を天平文化といいます。天平文化は、遣唐使によってもたらされた唐の文化の影響を受けた国際色が豊かな仏教文化でした
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