スピッツの曲にまつわるオリジナル小説

魚 (作者:あつこ)

魚 【5】

それはまるで、海に溶けるように。

海水は冷たく昼の暑さを恋しくさせた
月の明るさは太陽の何分の1だっけ。
街灯も無いんじゃ、本当に月だけが頼りで君を探す
声は聞こえるのに、吐息も波に消されないで痛いほど分かるのに。


「見つけた、真っ暗で分からなかった」
驚かせるように、彼女の背中を覆うようにして後ろから抱きしめた
返事が無い。
肩が僅かに震えている。
もしかして、泣いている?

「…どうしたの?」
「海が、海が。…あなたが行っちゃう」
「行かないよ、俺はどこにも行かないよ」小さな子に宥めるように言った
「嘘、明日には自分の街に帰るのでしょう?私のことなんて忘れるのでしょ?」
「忘れないよ」コトバが不思議とすぐに出る 迷いは無い。
「本当?」不安気に聞き返す「本当。」と偽りの無い言葉を、君への気持ちを素直に投げる。

こんなやりとりも今夜が最後で、今日を終えたら僕らに時間はほとんど残っていない
だから1分1秒。彼女の吐息を覚えて、目元や笑い方や、手や泳ぎ方を覚えて。

まるで海に溶けるように、彼女の涙は落ちていった
月が彼女を照らす
何もつけていない素肌がなめらかに反射して、僕を惑わす

言葉じゃなくって、僕らはリズムでつながっている
体温じゃなくって、僕らはリズムでつながっている

例えばこんな夜に、息をするリズムが一緒とか
心臓や脈拍のリズムとか、風になびく髪とか、瞬きの回数とか。
リズムは狂わなく永遠に確かで。
このリズムは今も、過去も未来も確かに一緒で、リズムが心臓を支配する
きっとこのリズムが僕らを出会わした この海で。
海の波の感じや、響く呼吸音がぬるく溶ける

「どこにも行かないで、街に戻らないで」祈るような叫ぶような、苦しげな声が波に消されるように響く
「手紙も電話も、メールでも。何でもするから。絶対に忘れたりしないから。」
「行っちゃうの?私をこの海に置いて」寂しげな声。
僕だって好きで彼女を置いていくのでは無い
けれどずっと傍に居るよ、なんて生半可な言葉を今はかけられない
早く自立して、自分で稼いで、彼女をこの海から自由にして。
「すぐ、戻ってくるから。海で待ってて。魚なんだろ?」
「約束してくれる?絶対に、愛してる?」
「愛してる、本当だよ。だから、今だけは−…」
そう言って僕は彼女を抱きしめる

だから、今だけは。最後の夜の今日だけは、泣かないで。
気の利いた言葉を最後まで言えずに、僕は抱きしめた

肩が震えている 君は今泣いている 僕は抱きしめている 泣かないで、恋人よ。
どこにも行かないから、ずっと傍にいるから。気持ちだけはいつまでも一緒だから。

あつこ 著