忘れられた歌姫と王子になれない青年(8823) (作者:カメ子)
忘れられた歌姫と王子になれない青年(8823)【4】
しかし、その前あたりから主人が呼ぶ時間は少しずつ減っていった。最近
ではとうとう、主人に歌うことを必要とされない。その上、行動制限はさら
にきつくなった。唯一許された蔵書室への立ち入りも禁止したのだ。完全に
この一室から出る機会を彼女は失った。外の世界が見えるのは、この窓の
み。
それでも、主人は私物としてこの名家において置くのは他の金持ち連中に
対して優越感を浸りたいらしく、使わないものの部屋に閉まったままだっ
た。居るだけで価値がある。と主人は所持していることを誇らしげに言う
が、その言葉だけ聞けば素晴らしいけれど、現実はどんなに酷い言葉だろう
か。それでも彼女は口をぎゅっと閉じて泣かないように必死で耐えている。
僕は欠かさず夜に出向いたが、1度も彼女は俯かずに居た。どんなに追い詰め
られても儚く笑うのだ。そんな彼女に僕はなにも出来ずにいた。
「あら、久しぶりに歌声が」
応接間でテーブルの配置や飾り付けをしていると声が小さく聴こえてき
た。その音は方向からいって多分、彼女の自室からだった。きっと一人で歌
っているのだろう。誰に届けるわけでもなく、自分の心を保とうと掠れかけ
た声で響く。どことなく、頼りない感じで、自然と僕は眉を寄せた。
「・・・心配ですか?」
「・・」
「心配だからって会いに行かないでくださいよ」
「分かってるって。……特に今はお客様がいっぱいいらしてるので不審な行
動は控えますよ」
「貴方は大丈夫ですか?」
「あぁ。心配しないで、仕事に影響するほどではないから」
「……そうじゃなくて。聞くだけしか出来ませんけど言うだけなら構いませ
んよ」
そう気遣われて、改めて胸が締め付けられた。
「正直、心配で堪らない」
独り言のように呟いた言葉をディザは、丁寧に一言だけ返す。
「……そうですね。お察しします」
「ほら、やっぱり・・。ディザまで暗くなってどうするだ」
「でも、いつも明るく響いていた声が、落ちていのを聞くのはこっちまでし
んみりしますよ。関係の無い私でも。だから、貴方は・・もっと」
聞こえたのは前にも後にも今日だけだった。それ以外、彼女の事は一斉耳
に入ってこなかった。
花壇の花が咲いたのはあれから、8日か経った今日。ちょうど、彼女の部
屋に行く日だった。きっとあの部屋の窓からでもこの花はよく見えるはず
だ。きっと今頃喜んでいるだろう。そんな光景が目に浮かんだ。
「会うまでの間、元気でしたか?」
立て込んでいた仕事が片付き、僕は彼女の部屋に訪れた。来客に彼女を見
せびらかすのかと思いきや、一度もそんな事は無かった。一度くらいは来客
の接待を任されたから、遠目でも彼女の姿を見れると思ったのだがそれは無
理だった。無理もない、彼女は昔のように明るく綺麗な声はでないのだか
ら、誰にも聴かせ魅せる武器など何も無い。逆に、来客の気分を損ないかね
ないし、この家の名前も落とすことになる。
そもそも、そこまで追い込んだのは主人だ。何もしていないけれど、して
いないからこそ追い込んだ。それとも、知らないだけで何か有ったのかも知
れない。結局、僕は何も知らないんだな。
「あ、来たんですね」
しーんと静まり返る部屋で彼女は僕に気づいて、本に埋めていた顔をゆっ
くりと上げる。机の上で本を読んでいたみたいだけど、途中で眠気が来たの
か本を広げたまま枕にしてしまったようだった。あれから返せないまま本が
並ぶ。
「寝てたんですか・・?髪も結構 乱れてますね」
8日間、どう過ごしてたんですか。大丈夫でしたか・・。そう言いかけて
言葉が口の中で消えた。いつもは櫛でしっかりほぐされて髪の毛の先まで綺
麗に1本1本伸びているのが、今日は手入れ前のように髪が多少、絡まってい
るように見えた。あ、それから1つに結いているのに今日は、まとめていな
くて、髪が遊んでいる。それに、髪が顔にかかって表情が暗く見えた。
「寝てはいません。飽きて、することもなくぼーっとしていただけです」
「でも、羽織るものもないなら、目を閉じなくても同じことだ。風邪を引き
ますよ」
「そうですね」
彼女は、淡々と僕の言葉に返した。まるで、どちらでもいいじゃないです
かと言うように、言葉にも魂が入ってない。
「あぁ。やっぱり」
心配していたことが・・。哀しいことを気づかないで済むように楽しい事
や嬉しいと思う気持すら働かないように心が閉じてしまっている。……なに
か。
なにか、僕に出来る事はないのか。
「髪」
「ぇ?」
「髪、僕が結っても良いですか?まぁ、もうこんな時間ですし寝るだけなん
ですけどね」
「きっと、ひどく絡まってるからやる気失せますよ」
「だからっ、です」
思わず力んで言うと彼女は少し圧倒されたように“はい”と呟く。多分、
無意識に行ってしまったのだろうけど、僕はその言葉を訂正される前に“あ
りがとうございます”と強引に続けた。色んなことへのやる気を失った君に
代わって解ければ良い。
「髪、触っても良いんですね?」
「あなたなら良いですから」
「櫛は何処に?」
「その赤茶の引き出しの中です」
「髪を止めるものは?」
「それも、同じところに。でもやっぱり、女の髪が乱れているのを見られる
のは恥ずかしいですね」
ちょこんと椅子に縮こまって座っている彼女が、髪に触れた瞬間にまた緊
張したように声を高くした。
「今さら・・。僕が今日来ることを分かっていたくせに。時間もあったのに
やらなかったのは君のせいじゃないですか」
どんなに髪が乱れていようと、その一本一本が愛おしかった。だから気付
かれないようにそっと唇を落とした。それから、手でそっと髪をすくいなが
ら、静かに言うと、彼女はやっと大人しくじっとした。だけど、少しまだ体
が固い。
「そんなに、気を張らなくて良いのに」
「男の人に髪をいじられるのは初めてのことで、傷んでないかとかいろいろ
気になって。いつもは自分でやってるし、ここに来てからは歌う前は少し髪
を整えるのに女性の方がやって下さったし・・・。」
「じゃ、僕が第1号なんですね。それに傷んでるとか気にしないでいいです
よ、ずっと前に妹の髪もほとんど毎日、結く仕事だったんで傷んでるのだっ
て結構、見飽きてます」
「それは・・フォローになってないですって」
「でも、本当に大丈夫そうですよ。絡まってるけど、解ければ髪自体は1本1
本綺麗ですから」
「髪の事なんか分からないくせに」
「まぁ、実はよく分かりませんけど」
表情は見えなかったけど、少し彼女はくすくすと笑った声がした。表情が
見えなかったのが少し残念だ。絡まった髪をしっかり時間をかけて櫛を入れ
ると髪は綺麗に解けていった。いつも通りに。
「ほら、できた。鏡は何処にあるんでしたっけ?」
「これは・・?」
「三つ編みにしてみました。髪が長いし、扱いやすかったんで助かりました
よ。……やっぱり、思ったとおり良く似合う」
「え・・」
「と言っても僕は三つ編みまでしか出来ないんですけどね。他の髪型で結っ
てって言われてもいつもできないって妹に言ってたから」
「三つ編みが一つなのも、髪を2つに分けるのができないからですか?」
「うん。単純にめんど臭いっていう理由で1度もやったことがありません」
「ははは、それじゃ妹さんも不満だったでしょう?」
「“文句あるならやらないからな”って言ったら結構、言う事利きますよ」
「強引。でも、私は妹さんの気持ち分かりますよ。私も上に姉が居るんで」
「そうなんですか」
「あなたは結構、大雑把なんですね」
「じゃー、こっちも言わせてもらいますが、男に細かいこと求められても困
りますからね」
「そうですね」
言われて初めて気づき、やっと納得したように彼女は返した。そして、く
すりと笑う。その1つ1つの反応すら僕は取り逃さないように大事に見てい
た。笑った顔も泣きそうな顔も。
「……明日、私、ちゃんと髪を結います」
「やっぱり、嫌でした?」
「いえ、そうじゃなくてっ」
慌てるように、彼女は言う。
「あなたが来る前に三つ編みをしっかり結って、待ってますね」
彼女は余程、気に入ったのか強ばっていたのが少しだけ顔を緩まして笑っ
た。そうやって笑ってくれれば僕は本当に助かる。ようやく、表情のなかっ
た顔から明るさが戻ってきた。
「じゃ是非、見せてください。明日から楽しみです」
「あの・・貴方はどうしていつも来てくれるんですか?」
息を吸うと急に真剣な顔で僕に訊いた。
「また、そんな質問を」
「だって、本当に・・。ここまで繰り返してはだめですよ。今なら間に合い
ます」
「今さら僕は無理です」
「・・っ」
「君だって、そんな事を言って」
「そんな事・・ないです。私は・・今すぐに、こんなこと止めたって構わな
いです」
「だったら、僕が勝手に来ますから」
そう言って逃がさないように手を伸ばす。会ってから初めて、腕を掴み彼
女の身体に触れると抵抗せずに、じっと目を合わせた。泣きそうな目だけど
それでもやっぱり、いつも通りキレイな眼だった。それに、その目はうそつ
きだ。僕が来なかったら大丈夫じゃないくせに。それから腕を引っ張って引
き寄せ距離を縮めると、次に何をされるのか分かったのか彼女は少し肩を震
わせた。だけど、お互い目を離さなかった。
「嫌じゃないんですね?」
何も言わない桃色の唇は軽く閉じたままだ。
「良いなら、目を瞑って」
手を彼女の顔に添えて僕は近づく。
好きだ、そんな言葉をずっと言わないように避けてきた。言ってしまえ
ば、何処へ堕ちるか分からなかった。けれど、それにも関わらず、彼女の気
持も訊かずに段階をすっ飛ばして、言葉以上の事を今しようとしている。
あと何センチも無い距離まで埋まった、その瞬間に
「トゥオ!そこまでです!!」
空気を裂くような声が響いた。その声と共に触れかけた彼女の唇を離して
顔を上げる。
「……ディザ」
「それ以上したら、もう許されませんよ」
「・・・っ」
ため息のような、不安げな息をディザは小さく吐く。
「やっぱり、声がしたと思ったら貴方も此処に居たんですね」
「……どうして此処に?」
「旦那様の指示で来たんです。……あなたを迎えに来ました。そのままでい
いので、すぐに来いっと・・」
僕らのあの後景を見て動揺したものの、ディザはすぐに落ち着いて言う。
じっとディザが見た先は彼女だった。
「旦那様がお呼びです、ライアさん」
ディザは僕ではなく、一度も聞くことのなかった彼女の名前を呼んだ。
「・・ら・・。いや、ディザ、こんな時間に主人は何で・・・?」
「目撃した人が私以外に他にも居たようです。先程、それを知った旦那様が
知って・・。だから、私が今のを観ても見なくてもお二人は言い逃れの仕様
がありませんからね」
「っ」
冷静に言ったはずの言葉がもう出せそうになかった。声が上ずる。今、主
人の元に言ったらどうなるかなんて想像は簡単にできる。何で、この張本人
である自分ではなく彼女を呼んでいるのかも。本当に、ディザの言ったとお
り自由のない僕らは責任など取らしてもらえない。こうなることは、初めか
ら分かっていたことだ。
「……行けばいいのですね」
と、そんな中、彼女は落ち着いた声で言う。
「駄目だ!!行かせたくないっ!!」
「でも、これが最良です」
「僕が嫌なんです。どうなるか分かってて行かせるなんて出来ない・・」
がっしりと許可を得ずに勝手に腕を掴むと彼女は困ったようにした。
「それに巻き込んだのはこちらです。」
意図的に言わなかった気持も、責任逃れだったなんて最低な奴だ。こんな
に好き勝手やっておいて、力もないくせに本当にいい身分だな、僕は。
「離してください」
「嫌です」
だけど、この先の幸せにさせる保証もないのに僕はこの手で、彼女の自由
を奪おうとしてる。より一層、掴んだ手に力を込めた。けして遊んでたわけ
じゃない。好きなのは嘘じゃないんです。
「一緒にこの屋敷から逃げてくれませんか?」
「え?」
「君を連れ出したい。嫌と言っても奪っていくからな」
カメ子 著 Plant