スピッツの曲にまつわるオリジナル小説

忘れられた歌姫と王子になれない青年(8823) (作者:カメ子)

忘れられた歌姫と王子になれない青年(8823)【6】

 しばらく走って、追いかけて来られないのを見ると、どうやら女性は主人
の所に行ったようだ。彼女がディザの腕を掴みながら「近づかないでくださ
い。来たら飛び降りますよ?」と言う事になっている。時間はないから、女
性とて此処で無駄なことをしている暇はない。女性は、主人のところに報告
に行くか、僕を追いかけるか2つに1つしかない。もっとも、僕は既に走り
去った後で、その上、女性に追いつけるわけもない。それに、応援を呼ばず
に単独行動を取って僕を追いかけることは無いだろうっと見越したが思った
とおりだった。時間稼ぎできるのは、前にディザが言った“5分”。それ以
上経てば、包囲されるだろう。でも、十分だ。

 鍵庫のある部屋まで着くと、息を整える暇もなく電気をつけずに廊下の灯
りだけを頼りに壁や棚に並んでいる鍵を漁った。置いてある位置は、ウル覚
えだけど分かる。
「……あった」

 部屋の真下まで車を動かすと、クラクションを鳴らすまでもなく、彼女が
バルコニーに立っていた。僕の姿を確認すると壁に掴まりながら樹の枝に手
を伸ばす。風が吹いてスカートが膝まで舞い上がる。少し、しなる枝も、そ
れから彼女の不慣れな動きも見てい安心して見守っては居られない感じだっ
た。その上、割りと高く伸びる樹は長年剪定をしているようで下の方には枝
が残ってはいない。

「足場が・・」
「だったら、僕が受け止めるからそこから飛び降りろ」
「・・っ」
「言っただろ、躊躇ってる暇はないって」
 バルコニーに居るディザが僕の方を見ていたが、一瞬部屋の中を振り返
る。
「……トゥオ、人が来たわ!!」
「っ」
「おいっ!待ってぇ!」
 大きな足音をたてて、部屋バルコニーから身体を乗り出す人影が見えた。
捕まえようとした男の手が彼女の足首を掠める。
「ほら、早く」
 意を決して樹から手を離して足を蹴ると彼女は僕に飛び込んだ。それを僕
はしっかりと倒れそうになりながら抱きとめた。
「良くやった」
 くそっ、と苦々しそうに男は顔を顰める。逃げ切れるかという、焦りと不
安、そして期待と、受け止めた彼女の身体の感触と温かさ。安心してる場合
じゃないのに、よく分からない混ざった気持ちが胸を高まらした。こんな状
況にも関わらず、掴んだ手の中に君を感じて、嬉しくて笑いそうになった。
今、幸せなのは君じゃなくて僕の方かもしれない。きっと、今は誰よりも幸
せなんだと思う。だから、知らない奴はなんとでも言えば良い。今だに後悔
なんてしてないから。
 何処までもただ行ける気がした。

「トゥオードっ!!」
 その声に上を向くと、ディザがバルコニーから叫んでいるのが分かった。
その呼ばれた名前が、初めて“行かないで”と言われてるような気がした。
それから、“どうか、無事で”と、こんな僕を願ってくれていると分かる。
震えた声はきっと他の奴から見れば多分、ただ動揺している何も知らないデ
ィザにしか見えていないのだろう。それに、多分、彼女に腕を掴まれていた
ディザは協力者には見えない。だから僕も口には出さずにディザにただ“心
配すんな、そっちも元気で”と目だけで伝えた。こっち側は暗闇だから顔ま
で見えたか分からないけど、きっと何年も一緒に組んだディザには届いたは
ずだ。

“それでも、ごめんな。さよなら”

“ありがとう”


「ほら、乗って」
 ほら、自由にしてあげる。こんな屋敷から僕だけが君を。誰よりも早く駆
け抜け、逃げきってみせるから。今は何処までも手を離さずに着いいてき
て。手を引いて、多少、強引に助手席に乗せて、つけっぱなしだったエンジ
ンのまま、アクセルを踏んで車を走らせた。
「飛ばすから、何かに掴まって」
 そう言ってさっきよりも深くアクセルを踏んだ。風景も走るように変わっ
ていく。
 
 取り敢えず、距離を稼がないといけない。いりくんだ道に入って追っ手を
巻きたいが、なんせ金持ちの車はボディーが大きいし目立つ。大通りを飛ば
すしか無いか・・・。
「追い詰められてる状況なのに、楽しそうですね」
 いろいろ考えていると、隣の席で彼女が呟く。
「そりゃぁ、もちろん。でも君も眼が輝いているのは僕の気のせい?」
「私も実は楽しいです。それにあなたは、そんな口調でも話のですね。それ
が本来の?」
「そうだよ、知らなかった?」
「・・でも、似合ってる」



「もしかしたらさ、ずっとあのままの状況が続いたら僕は満足しなくなって
いたと思う」
「1日に数十分会うだけの日をですか?」
「そう。日に日に、嫌になってくるんだ。想うのは強くなっていくのに隠れ
て会っているのが女々しすぎて。だけど、それさえ、失いたくなかったし」

「結局は、君を連れ去っていたかもしれない。君を自由にしたいとか、格好
良く言っているけど実は堂々と君を僕のものにしたかっただけだ」
「でも。……私も同じです」
「じゃ、君の自由を僕にくれる?」


「そう言えば約束通り教えてください。これから、ずっと傍に居るんですか
ら」
「結局、言う前に分かってしまったけどね。まぁ、改めて ・・僕の名前
は、トゥオード・アドバン。君は?」
「ライアです。ライア・エブロム」



「ライア」
 初めて名前を呼ぶと弾かれたように反応し、顔が赤くなった。
「不安?」
「……少し」
「正直、僕も少し」
 所持金はポケットに入ったコイン数枚と金になりそうな腕時計一つ。あの
状況で取りに行く時間なんか無く、所有物は全て置いて行き何一つ手元に無
い。何もかも、ゼロからのスタートだ。
「でも、後悔はしてません」
「まぁ、ライアには負担はかけないように働いて頑張るから」
「町の暮らしには慣れているから大丈夫ですよ、きっと。私も頑張ります
し」
「不自由でも?」
「不自由なんて、あなたが居ればそんなの思いませんから」
「そうか。なら良いんだけど。本当は、今までずっと不安だったんだ。幸せ
にできる保証も力もないから、絶対に不幸にするだけだって。でも手を握っ
て走った途端に、そんなことどうでも良くなるくらい、守りたいとか、この
まま離したくないとか思った。まるで、心が加速するようにさ」

「だから、」

「騙されたと思って、この先も信じて」
「はい。信じます」
 信号に合わせてブレーキを踏み止まった短い時間を見て、続けて言う。
「じゃ、今度はちゃんと目瞑って」
「えっ…………はい」
 少し、戸惑ったように不手際に目をぎゅっと閉じる顔が、本当に唇を重ね
て良いのか分からないほど緊張していた。微かに口も震えているようで早く
終わらしてあげないと、。屈んでライアの背丈に合わせると少しだけ普段の
見え方が変わる。いつも、大きく開く目が今は無防備に閉じ僕に預けるのを
見たら、他の人よりも特別さを感じた。
 音を立てることもなく、静かに唇に触れた。

「今のって・・」
「そう。誓いのキス」
「トゥオードはいつも突然ね」
「もっと考える性格だったら、きっとライアに会ってないよ。あ、そうだ。
あと、左手を出して」
 ポケットにしまった物を取り、差し出された手に自分の手を添える。そし
て、もう一方の手でライアの薬指に指輪をはめた。ダイヤなんかついていな
い、そっけない安物のリング。かろうじて付いている花のポイント。
「これは・・」
「元々は、僕が買った。最初の方に、外出が許されてディザと出かけたとき
に“家に帰りたい、屋敷に戻りたくない”って泣かれたんで、気休めになれ
ばと」
「良いんですか、私なんかに」
「ディザが返してきたんだし、“つけるのは誰でもいい”っ言われたのは、
つまり“ライアにつけてあげて”って意味だと思うので、問題はないよ」
「思い出の詰まった物なんですね。大事にします」
「こんな、簡単なものでごめんな」
「それに、順番バラバラです。普通は、指輪の後に、誓いのキスなんです
よ?」
「あー」
「ふっ。ホント、てきとーですね。まぁ、いいですけど」
 笑いながら、ライアはただ指輪をずっと眺めていた。その指輪は、ディザ
が初めて付けたときから“後戻りはしない”“乗り越える”って何度も言い
聞かせた年季入りの物だ。
「皆んなの想いが入っているんですね」
 月の下で手首を動かすと、指輪が微かに光った。

カメ子 著 Plant